
毎日、たくさんの「当たり前」と向き合いながら仕事をしています。
安全第一。
効率よく。
ルールを守って。
迷惑をかけないように。
介護の現場には、こうした“常識”があふれています。
そして私は長い間、それを疑うことなく信じてきました。
それが正しい。
それがプロ。
それが入居者様のため。
そう思っていました。
でも、ある時から、胸の奥に小さな違和感が残るようになったんです。
「それ、本当にこの人のためなんだろうか」
頭では分かっている。
危ないから止める。
決まりだからダメ。
今はその時間じゃない。
全部、正論です。
誰が聞いても正しい。
それでも、目の前のその人は、どこか悲しそうで、どこか悔しそうで、
そして、どこか諦めたような表情を浮かべていました。
私はその顔を見るたびに、
「私は何を守っているんだろう」
そう自分に問いかけるようになりました。
ある入居者様がいました。
食事の時間になると、決まって少し遅れて食堂に来る方です。
時間は決まっている。
配膳の流れもある。
職員の人数も限られている。
だから私は、
「もう少し早く来てくださいね」
と、何度も声をかけていました。
それは常識的な対応でした。
現場としては、むしろ当然です。
でも、その方はいつも小さくうなずくだけで、次の日も同じでした。
ある日、ぽつりと、こんな言葉を言ったんです。
「急かされるとね、ここが苦しくなるんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸が締め付けられました。
その方は、長い人生の中で、
誰かのペースに合わせ続けてきたのかもしれない。
仕事で、家庭で、社会で。
やっと辿り着いたこの場所でまで、
また急かされることが、どれほど辛かったのだろう。
でも私は、
「決まりだから」
「みんなそうしているから」
という常識を盾に、その気持ちを置き去りにしていました。
そのとき、ふと頭をよぎった言葉があります。
「非常識な前提で考えてみてもいいんじゃないか」
もし、時間通りに食堂に来なくてもいいとしたら。
もし、少し遅れても誰にも迷惑をかけないとしたら。
もし、その人の“心の安心”を最優先にしていいとしたら。
それは、介護の常識から見れば、非常識かもしれません。
でも、人として考えたら、どうだろう。
私は次の日、その方にこう言いました。
「準備ができたら、来てください。お席、取っておきますから」
ほんの小さなことです。
ルールを大きく変えたわけでもありません。
それでも、その方は、少し驚いたような顔をして、
そして、ゆっくりと微笑いました。
その笑顔を見たとき、
「これでよかったんだ」
そう思いました。
介護の仕事をしていると、
「非常識であってはいけない」
「正しくなければならない」
そんなプレッシャーを感じることが多いと思います。
私もそうです。
事故が起きたらどうする。
クレームが来たらどうする。
周りからどう見られるか。
考え出したら、キリがありません。
でも、その不安のせいで、
目の前の一人の人生を、窮屈にしてしまっていないでしょうか。
非常識な前提で考える、というのは、
何もルールを無視することではありません。
「この人にとっての幸せは、何だろう」
そこから考え直してみること。
そのために、一度だけ、
世の中の“当たり前”を横に置いてみる。
正解は一つじゃない。
むしろ、正解なんてないのかもしれません。
入居者様一人ひとり、
大切にしてきた価値観も、人生も、全部違う。
それなのに、
同じ前提、同じ常識で関わろうとすること自体が、
もしかしたら非常識なのかもしれません。
介護は、人の人生の最終章に寄り添う仕事です。
だからこそ、型にはめるよりも、
その人の「らしさ」を守りたい。
もし今、
「こんなやり方でいいのかな」
「自分は間違っているんじゃないか」
そう悩んでいるあなたがいたら、伝えたいです。
悩めるあなたは、冷たい人じゃない。
むしろ、とても優しい人です。
非常識だと思われる前提の中にこそ、
本当の思いやりが隠れていることもあります。
私はこれからも、
常識と非常識の間で揺れながら、
それでも、目の前の人の声を信じて働いていきたい。
正しさよりも、あたたかさを。
効率よりも、その人のペースを。
非常識な前提で考える勇気を、
今日も胸の奥に持ちながら。
最後までお読みいただきありがとうございます。