kaigonoki’s diary

えがおの高齢者を増やす介護士

自分が恵まれた環境にいたことに感謝し責任を果たす

介護の仕事をしていると、「人の人生の終盤に寄り添う」という言葉の重みを、嫌というほど突きつけられます。

 

教科書の中の言葉でも、研修で聞いたきれいごとでもなく、目の前で息づく現実として、毎日そこにあるのです。

 

朝、施設のドアを開けると、いつもの匂い、いつもの空気、そして「おはよう」という声が迎えてくれます。

 

その一言が、今日は元気なのか、どこか苦しそうなのか、少し声を張っているのか弱々しいのかで、全部わかってしまう。そんな関係性の中で働いていると、自然と心が揺さぶられます。

 

正直に言えば、楽な仕事ではありません。
体力的にも精神的にも、きついと感じる日は何度もあります。夜勤明けで足が棒のようになり、家に帰ってベッドに倒れ込む日もある。

 

理不尽な言葉を投げかけられて、トイレで一人、深呼吸をしたこともあります。「どうして私はこの仕事を選んだんだろう」と、自分に問いかけた夜もありました。

 

それでも、ふとした瞬間に思うのです。
私は、恵まれた環境にいた人間なんだと。

 

健康な体があり、働ける場所があり、誰かの役に立てる立場にいる。家族に大切にされ、学ぶ機会を与えられ、仕事を選ぶ自由もあった。その「当たり前」が、実はどれほど尊いものなのかを、この仕事を通して知りました。

 

入居者様の中には、「もう自分では何もできない」とぽつりと呟く方がいます。かつては誰かの親であり、働き手であり、家庭を支えてきた人たちです。

 

そんな方の手を引きながら、「ありがとうね」と言われるたびに、胸の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚になります。

 

ありがとう、と言われる立場なのに、私のほうがもらってばかりなのです。

 

自分の人生を振り返りながら、「あの頃は幸せだった」「若い頃にもっとこうしておけばよかった」と語る姿を見ていると、今を生きている自分に問いかけられている気がします。


――あなたは、今の環境に感謝できていますか?


――与えられた役割を、ちゃんと果たしていますか?

 

私は、答えに詰まることがあります。


忙しさを理由に、感謝を忘れていた日。
余裕がなくて、笑顔を向けられなかった瞬間。
「仕事だから」と心を切り離そうとした自分。

 

それでも、この仕事は逃げ場を与えてくれません。目の前にいる「その人」は、今日しかない一日を生きている。その時間に関わる責任を、私は引き受けているのだと、静かに、でも確かに突きつけられます。

 

恵まれた環境にいるということは、ただラッキーだった、で終わらせてはいけないのだと思うようになりました。


恵まれているからこそ、果たすべき責任がある。
元気な体があるなら、その体で誰かを支える責任がある。
心が動くなら、心を込めて向き合う責任がある。

 

完璧な介護士ではありません。失敗も後悔も、数えきれないほどあります。

 

それでも、「今日はあなたに会えてよかった」と言ってもらえた日、「あなたがいてくれると安心する」と言われた瞬間、その言葉が私の背中を押してくれます。

 

この仕事をしていると、人は一人では生きられないのだと、何度も思い知らされます。そして同時に、人は誰かの力になることで、生きる意味を見出せるのだとも感じます。

 

もし今、この記事を読んでいるあなたが、毎日を必死に生きていて、「自分なんて」と思っているのなら、どうか覚えていてほしい。

 

あなたが今いる場所、今できていることは、決して当たり前ではないということを。

 

私もまだ道の途中です。迷いながら、悩みながら、それでもこの場所で働き続けています。恵まれた環境にいる自分に感謝し、その分、目の前の人に誠実でありたい。

 

それが、今の私が自分に課している、小さくて大きな責任です。

 

今日もまた、誰かの一日を支えるために、私は現場に立ちます。
その重みを、胸に抱えながら。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。