「もっと○○だったらいいのに」
「もっと評価されたい」
「もっと時間があれば」
そんな“もっと”が頭に浮かぶことは、誰にでもあると思います。私自身、介護士として老人ホームで働くなかで、そうした気持ちと何度も向き合ってきました。
けれど最近、ふとこう思うようになったのです。
「“もっと”を追い求めすぎると、大事なものが見えなくなるかもしれない」と。
入居者様から教えてもらった“足るを知る”という感覚
私が働いている老人ホームには、長年連れ添った配偶者を見送った方、病気を乗り越えてきた方、身寄りのない方、さまざまな背景を持つご高齢の方々がいらっしゃいます。
ある日、90代の女性の入居者様が、食後にこう呟かれました。
「もう、これだけ食べられたら十分よ。ありがたいねえ。」
そのとき、出されていたのはいつものやさしい和食の定食。豪華なメニューではありませんでしたが、彼女はゆっくりと味わいながら、何度も「ありがたい」と言っておられました。
その姿を見て、私はハッとしました。
私ならどうだろう。もし自分だったら、「もう少し豪華なメニューだったら」「スイーツもついてたら」なんて思っていたかもしれない。
でも、その入居者様は“今あるもの”にしっかりと目を向けて、“満ちている”ことを感じておられたのです。
「もっと評価されたい」そんな気持ちに疲れていた時期
介護の仕事は、地味な作業の積み重ねです。感謝の言葉をいただける日もありますが、報われないように感じる日も少なくありません。
私はある時期、「もっとちゃんと評価されたい」「頑張りを分かってほしい」という思いが強くなって、仕事が苦しくなってしまったことがありました。
その気持ちを正直に先輩に打ち明けたとき、こんな言葉をもらいました。
「“もっと”が悪いわけじゃない。でも、あんまり“もっと”ばっかり見つめてると、自分がちゃんとやってることに気づけなくなっちゃうよ。」
その言葉に私は救われました。
確かに私は、入居者様と毎日丁寧に関わっていたし、失敗もあるけれど反省して次に活かそうともしていました。それなのに「もっと」を追いすぎて、「もうすでに持っているもの」を見失っていたんです。
“満ちている”と気づける心の余白
「もっともっと」と望む気持ちは、人間らしいものだと思います。向上心とも言えますし、よりよくなりたいというエネルギーの証でもあるでしょう。
けれど、それが過ぎると、自分を苦しめてしまうこともあります。
たとえば、入居者様との会話の中で、何気ない一言に笑い合えた日。忙しい中でも、同僚がそっと声をかけてくれた瞬間。ふと外に出たときの風の心地よさ。
そういう“小さな満ち足りた時間”に気づけることは、心の余白があるときにしかできないことかもしれません。
“もっと”と欲しがることで、その余白がどんどん埋まってしまうなら、少し立ち止まって、「今あるもの」を見つめてみたい。そんなふうに思うのです。
今日も「足りている」ことに目を向けてみよう
介護士として日々働いていると、時間にも感情にも追われがちです。でも、だからこそ「足るを知る」視点を、私は忘れたくないと感じています。
「今日も、入居者様が安心して眠れた」
「小さな笑顔を引き出せた」
「無事に1日が終わった」
これって、当たり前のようでいて、決して“当たり前”ではないはずです。
「もっともっと」ではなく、「これだけでもありがたい」と思える心を持つこと。
それは、日々の介護の仕事を、自分の心を守りながら続けていくためにも大切なことだと感じています。
さいごに
今の社会は、“もっと上を目指せ”“もっと成果を出せ”という空気に満ちています。
でも、介護という仕事においては、「今ここ」にある穏やかさや静けさを大切にすることが、なによりも人に寄り添う姿勢につながるのではないでしょうか。
誰かと比べなくていい。
もっと多くを求めなくても、私はここで、すでにたくさんのものを手にしている。
そう思えるとき、きっと仕事も人生も、少し軽やかになるような気がします。
最後までお読みいただきありがとうございます。