介護士として、私は日々、人生の最終章を生きる方々と向き合っています。
老人ホームという場所は、老いや病を抱えた方々が、安心して暮らすための場所であると同時に、人生を静かに見つめ直す時間が流れる場所でもあります。そこではときに、涙を伴う言葉がぽつりとこぼれることもあります。
「私、自分のことが嫌いなの」
ある日、そんな言葉を口にした女性の入居者様がいました。
静かに語られる「自分嫌い」
その方は80代の女性で、言葉遣いは丁寧で、おだやかな印象の方でした。手先が器用で、おしぼりを美しくたたんでくださる姿が印象的な方でもあります。
ある日の午後、いつもより少し元気がないように見えたので、お声をかけると、少し沈んだ声でこう言われたのです。
「若い頃ね、私、母の期待に応えたくて生きてきたの。結婚も、仕事も、全部『いい子』でいようとしてた。でも、本当はやりたくなかったことばかりだった。いま思えば…私、ずっと自分に嘘をついて生きてきたのかもしれないの」
そしてしばらく黙ったあと、ぽつりと、「そんな自分が嫌い」とつぶやかれました。
私は、その言葉を聞いてすぐに何かを言うことができませんでした。言葉にしてしまうには、あまりにも深く重い気持ちが、そこには込められていたからです。
「嫌い」と感じるには、理由がある
人が「自分が嫌い」と思うとき、それはただの自己否定ではありません。
そこには、どうしようもなかった過去への後悔や、選びたくても選べなかった苦しさ、誰にもわかってもらえなかった孤独、いろんな思いが積み重なっています。
誰しも、人生のなかで「本当はこうしたかった」「あのとき、ああすればよかった」と思う瞬間があるものです。それは、決して珍しいことではありません。
でも、長い年月を経て、それが「私は間違ってばかりだった」「私は自分を裏切ってきた」と感じられてしまうとき、人は静かに、自分を嫌いになってしまうことがあるのです。
介護士としてできること
介護の仕事は、ただ身の回りのお世話をするだけではありません。ときに、人生の痛みや後悔に寄り添うことも求められます。
でも、「それは違いますよ」「そんなことないですよ」と、すぐに否定してしまうのは、かえって相手を孤独にすることがあります。
だから私は、その方の横に座り、小さな声でこう言いました。
「そう感じるのも、当然かもしれませんね。でも…その時のあなたなりに、一生懸命だったんだろうなとも思います」
その言葉に、その方は少しだけ目を閉じ、しばらくしてこう返してくださいました。
「そうね…がんばっていたのかもしれない。そう思うようにしてみようかしら」
その表情は、ほんの少しだけやわらかくなっていました。
「自分を嫌いなまま生きる」ことも、悪くない
私たちは「自分を好きにならなければならない」と思いがちです。ポジティブで、前向きで、自己肯定感が高いことが良い生き方だと、無意識に信じている部分があります。
でも、長い人生のなかで、「自分のことが嫌い」と思ってしまう時期があるのは、むしろ自然なことかもしれません。誰かに否定された経験、選べなかった選択、気づいたときには手遅れだった夢。
そういったものを背負いながら、それでも日々を重ねているということ。それだけで、本当は十分すごいことなのだと私は思います。
自分を好きになれなくても、誰かと笑い合ったり、少しだけ優しい気持ちになれたりする時間があるなら、それはそれで、かけがえのない人生の時間です。
傷ついた心にも、癒える瞬間はある
「自分が嫌い」と言ったその方も、今では少しずつですが、スタッフとの会話に笑顔を見せてくださることが増えてきました。
あの日、自分の過去に向き合い、その痛みを言葉にしてくださったことで、少しずつ何かが変わってきているのかもしれません。
傷ついた心には、癒えるための時間と、誰かがそっと寄り添ってくれるぬくもりが必要なのだと思います。
完全に「好き」になれなくても、「そんな自分でもいいか」と思える瞬間が訪れたとき、人はまた一歩、前に進めるのかもしれません。
さいごに:人生の終盤にこそ、心に寄り添うケアを
老人ホームは、人生の「終わり」に向かう場所ではありますが、同時に「癒し直し」の場所でもあると私は思っています。
過去の後悔も、傷ついた自尊心も、「あなたの生きてきた道には意味があった」と誰かにそっと認めてもらえるだけで、心の風景は少し変わります。
私たち介護士ができるのは、その風景にそっと寄り添うこと。
「自分が嫌い」と言う方に、「そうですね」とそのまま受け止めること。そして、「それでも、ここにいてくれてありがとう」と、心を込めて伝えること。
人生の最終章において、誰かにそう言ってもらえるだけで、人はきっと、自分の存在に少しだけやさしくなれるはずです。
最後までお読みいただきありがとうございます。