「もしも魔法のように、すべての願いが叶うとしたら、みんな幸せになれるのだろうか?」
そんな問いかけを、ふと心の中で繰り返すことがあります。
私は老人ホームで介護士として働いています。日々、さまざまな人生を歩んでこられたご入居者様と接する中で、「幸せとは何か」というテーマを強く意識するようになりました。
若い頃には「欲しいものが手に入る」「行きたい場所に行ける」「やりたいことができる」ことが幸せだと、単純に信じていました。
けれど実際に人生の大先輩たちと向き合っていると、それだけでは測れない深さがあることに気づかされるのです。
願いが叶った人生のはずなのに…
あるご入居者様は、若い頃から仕事で成功され、家庭も築き、経済的にも豊かに過ごされてきました。いわゆる「願いが叶ってきた人生」を歩まれた方です。
しかしその方は、ある日ぽつりとこんなことを言われました。
「自分は欲しいものをほとんど手に入れてきた。でも、今になって思うと、本当に欲しかったものは“誰かと分かち合う時間”だったのかもしれない。」
その言葉はとても重く、私の胸に残りました。
「願いが叶うこと」と「幸せを感じること」は必ずしも一致しない。むしろ時にはズレが生じる。そんな現実を、日々の会話の中で見せていただいている気がします。
願いが叶わなかったからこその幸せ
一方で、人生の途中で大きな事故に遭い、思うように歩むことができなくなった方もおられます。
本来なら「望みが叶わなかった側」に分類されるかもしれません。ですが、その方がこんなことを話してくれました。
「あの事故のおかげで、人に助けてもらうことのありがたみを知った。もしも元気なまま突っ走っていたら、きっと誰かに優しくする心を持てなかったと思う。」
私自身、その言葉を聞いたとき、ハッとしました。
「すべての願いが叶う」世界では得られなかった“気づき”や“人とのつながり”が、願いが叶わなかった経験から生まれているのだと。
幸せは「形」ではなく「感じ方」
願いが叶ったかどうかに関係なく、「幸せだ」と感じる人もいれば、「満たされない」と感じる人もいます。
つまり幸せは、手に入れた“結果”ではなく、それをどう受け止めるかという“心のあり方”によって大きく左右されるのだと思います。
老人ホームで働いていると、小さなことに喜びを見いだせる方がたくさんおられます。
例えば、
窓際で季節の花を眺めながら「きれいだね」と微笑む。
おやつのプリンを一口食べて「この味が一番落ち着く」と言う。
スタッフや仲間との会話に「今日も楽しかった」と笑顔を見せる。
これらは豪華な願いが叶ったわけではなく、むしろ日常の何気ないひとコマです。けれど、その瞬間にご本人は確かに「幸せ」を感じておられるのです。]
「すべての願いが叶う」よりも大切なこと
人は欲を持つ生き物です。「もっとこうなりたい」「あれが欲しい」と思うこと自体は自然なこと。
でも、願いが全部叶った世界にいたら、本当に満たされるのでしょうか。
もしかすると、人は「叶わないこと」「思い通りにならないこと」があるからこそ、工夫し、感謝し、つながりを求めるのかもしれません。
ご入居者様の姿を通して私が学んだのは、「幸せは出来事そのものではなく、それをどう感じ取るか」ということ。
願いが全部叶うことよりも、叶わなかった願いの中で見つける小さな喜びや、人と分かち合う温かさの方が、ずっと深い幸せにつながるのではないかと感じています。
さいごに
この仕事をしていると、人生の集大成の時間を過ごしている方々から、たくさんの気づきをいただきます。
もしもすべての願いが叶ったとしても、それだけで全員が幸せになるわけではありません。
むしろ「叶わなかったことの意味」に光を当てられる人こそ、豊かに生きられるのではないでしょうか。
幸せとは、与えられた状況の中で「これも悪くない」「ありがたい」と思える心の柔らかさ。
私もまた、入居者様から学んだその生き方を胸に、日々を大切に過ごしていきたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございます。